『ディストラクション・ベイビーズ』

『ディストラクション・ベイビーズ』観てきました。日曜のラストにもかかわらず満席でしたね。他の回も立ち見が出るぐらい盛況なようで。観客はシネフィルっぽいおじさん以外にも、若い子が多かったです。若い監督の映画を、同じ場所で同じ世代の人間と観るのは良い。岩波ホールなんか行くと、じっちゃんばっちゃんばかりで、ちょっと悲しくなりますから…。

 

映画の内容ですが、いきなりこんなこと言ったら身も蓋も無いですが、「ぶっ殺してえ」、「殴りてえ」って欲望をみんな抱えてんだよ!って話だと思います。全編とにかく殴りっぱなし。ほとんど暴力シーンです。 この暴力シーンを長回しで撮っているのが非常に良かった。長回しとなるとなんでもかんでも礼賛することには疑問を持ってしまいますが、暴力シーン、特に生っぽい暴力を描くときこそ、長回しにすることでリアリティが生まれます。

 

暴力を描くことで何を伝えたかったのか、以下で考察していきましょう。

柳楽優弥演じる泰良は動機もなく喧嘩をふっかけてただただ殴り続ける「暴力」の象徴として描かれています。「暴力」を象徴する人物というと『ノー・カントリー』のシガーを思い出しますね。「暴力」を純粋培養した存在がシガー。ただ、泰良はちょっと違います。正確に言えば「暴力」の象徴ではなく、「暴力の欲望」の象徴だと思います。シガーは感情が全くありませんし、標的を殺すこと以外に無駄がない。スタイルと言えるまで削ぎ落とされた「暴力」そのものです。それに対して、泰良は楽しいという感情を見せるし、行動が無軌道です。つまり、「暴力の欲望」は抽象的なものではない、もっと生身で無軌道なものであるということ泰良が体現しています。 この「暴力の象徴」という人物が、非常にうまく設定されています。まず、惣領はほとんど喋らない。そして、ぶん殴り、殺すことに動機がない。両親がいないことなど若干の手がかりはあるものの彼のバックバーンはほとんど説明されない。つまり、「暴力の欲望」は喋りもしないし、動機もない、そこに背景もないということを、上記のような人物設定にすることで、より際立たせています。最後に警察が泰良を発見しますが、警察は「暴力」を抑圧するものです。しかし、泰良は捕まることもなく、殺されることもない。むしろ警察を殺してしまいます。これは「暴力の欲望」を抑圧することはできても、その原始的な欲望を殺すことはできない、それを表しているのではないでしょうか。

その泰良を見て、裕也と那奈は惹かれていきます。つまり、原始的な欲望である暴力に惹かれてしまう。裕也は明からさまに泰良に惹かれていきますが、那奈も惹かれていることを、裕也と泰良が暴行する動画を見る表情で見せているんですね。そして、泰良の弟、翔太も例外ではありません。祭で神輿を担ぎ、ぶつかり合う男達を見て翔太は目を潤ませます。暴力の代替行為である祭に翔太も惹かれてしまっている。そして、もちろん祭に参加する大人たちも、「暴力の欲望」を持っています。

那奈が保護された後、SNSの画面が映され、「那奈ちゃん可哀そう…」といったことが書かれていますが、それを書いている人も同様です。暴力をスマホで撮る通行人も、そのニュースを見たがる人も、安全地帯にいながら「暴力の欲望」を持っているのではないでしょうか。

飲み屋で『ディストラクション・ベイビーズ』の話をしているとき、動機なき暴力と聞いて隣のおじさんが「そういう時代なんじゃない…?」と言っていましたが、はたしてそうでしょうか。古今東西、人間が動機のない「暴力の欲望」を完全に失ったことはあったのか。むしろ原始的な欲望として、「ゆとり」だか「さとり」だか言われる世代も、その上の世代も、常に持ってきた欲望ではないか、それを表現している映画だと思います。

本当にどこをとっても良い映画なのですが、一点、瑕疵を言うとすれば、那奈がはたかれるシーン、顔が髪の毛で隠れてしまっていることぐらいですかね。代役立ててんのかなあと思わせてしまうので…。それも微々たるもので、本当に素晴らしい映画です!

『ユダ』

たまには危険な匂いをプンプンさせてる地雷映画も観たくなるってことで、『ユダ』観ました。 面倒なので、ストーリーはオフィシャルサイトから抜粋。

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埼玉県郊外の街。女子高生の絵里香は、どん底にいた。彼氏の裏切りによって、心と額に深い傷を負ってしまったのだ。傷を理由にバイト先のファミレスから出勤を拒否された彼女には、お腹にいる彼氏の子を中絶する金の当てもない。みじめな絵里香を呼び止めたのは、キャバクラ「エルセーヌ」のマネージャー・新海だった。

2日後、大宮の繁華街。絵里香はエルセーヌに恐る恐る足を踏み入れた。笑顔で迎えた新海は、彼女に「瞳」という源氏名をつける。時給4000円のバイトが始まった。緊張の中、たった5日間で10万円を手にした絵梨香は、翌日、病院で中絶手術の麻酔から覚め、泣いていた。

 

絵里香は、過去と決別し、「信じること」をやめた。そして、エルセーヌで働く道を選ぶ。 “彼女いない歴35年”の屈折した会社員・名輪が、絵里香の最初の指名客となった。もじゃもじゃ頭の彼はベートーベンという密かなあだ名で絵里香のノートに記録された。客達はそれぞれに、孤独や欲望などという名の「心の穴」を持っていた。彼女は、彼らが願うままにその穴を満たしていく。平気で嘘もつけるようになった。

1年後、絵里香はエルセーヌで№1のキャバクラ嬢となっていた。だが、焦燥感から逃げられない。誰よりも深い自身の「心の穴」を埋めるべく芽生えた野望、それは、東洋一の歓楽街・歌舞伎町でのし上がることだった。

 

歌舞伎町でトップクラスの高級店エデン。絵里香は、「胡桃」という源氏名で華麗な戦場に飛び込んだ。№1キャストの美々や同僚たちのイジメに対抗しながら、わずか2ヶ月でNo.2に上り詰めるという、店の新記録を打ち立てる胡桃。だが欲しいのは№1の座だけ。 美々とのライバル関係は、熾烈を極めていく。だがある夜、泥酔した美々を男達の危害から救ったことから、ふたりには、危険な戦場に身を置く者同士の共感が芽生えていく。ひりひりする毎日の中で、美々は摂食障害、胡桃自身も買物依存症に苛まれていた。 ある夜、体調不良で欠勤した美々は、自身の最も重要な太客・冴木の接客を胡桃に頼む。足の引っ張り合いが常識のこの世界で、美々は胡桃を信用したのだった。 エデンのVIPルーム。事もなげに高価なロマネ・コンティをオーダーした冴木は、暗い欲望を秘めた目で胡桃をアフターに誘う。迷う胡桃だが、それが何を意味するかわかった上で、心を決めた。その夜、彼女は冴木のマニアックなセックスに身を任せる。 冴木は美々から胡桃へと乗り換えた。冴木と一緒に暮らす約束までしていた美々は、胡桃の裏切りに狂乱する。こうして胡桃は、惜しげもなく大金を使う冴木を客につけ、孤立と引き替えに№1の座を勝ち取った・・・。 胡桃は、彼女を手に入れるためには誰もが喜んで人生を投げ出すようなキャバクラ嬢となっていく。金ヅルでなくなれば、すがる冴木も捨てた。普通のサラリーマンに過ぎぬベートーベンには、胡桃にとって特別な存在だと信じ込ませ、借金を重ねさせて1千万もの金をつぎ込ませている。 そんな時、胡桃は金融界の若きカリスマ・大野と出会う。「何も信じない」と決めた心が、その出会いで揺れ始めた。「獲物」のはずの大野の素顔にどうしようもなく惹かれてしまう“絵里香”がいる。でも走り続けなければ、この場に居続けなければ、昔の弱い自分に戻ってしまう・・・。胡桃は、微笑みの下で誰にも見せられぬ恐怖と戦い続ける。

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歌舞伎町をバックに胡桃のモノローグから始まり、過去に戻るっていうサンドウィッチ構造なんですが、そのモノローグでこんなことを言うんですね。

 「歌舞伎町で私を知らない人はいない」「誰もが羨む幸せを私は自分の手で手に入れた」って、あの、知らないですし…羨ましくないですし…ってツッコミたくなるんですが、これが暗いトーンとポローンポーローンみたいなBGMと共に流れるんで、田舎から出てきた少女が歌舞伎町でNo.1を取ったけれども、金と名誉を獲得しても中身はからっぽで…みたいな物語なんだろうなあ、と予想がつきます。原作モノなんで予想できていいんでしょうけども…。

 

その後高校時代に遡って、浮気現場を見つけた絵里香(胡桃)が彼氏と揉めるシーンがあるんですが、この後の紋切り型っぷりがすさまじい。端的に言えばケータイ小説みたいな流れなんですが、白っぽい画面と共に観てるこっちもしらけます。 そのボヤーッとした白っぽい画面なんですけど、全てのシーン通してこれが続きます。胡桃の心理状態を表しているっていえば納得できるような気がするんですが、舞台は歌舞伎町ですよね。歌舞伎町の何が良いって、風林会館の前をランボルギーニが通りすぎるあのバッド・テイストなわけで、金と欲望丸出しの街を写してるんですよ。それに、胡桃はNo.1になっていくんですから、名誉と金を得て、一時は浮かれ騒いでたはずなんですよ。常に心理的なモヤモヤがあったとしたらNo.1なんてとれてないでしょ。だからこそ、これでもかってぐらいバッド・テイストに、俗っぽく歌舞伎町は写した方が良かったと思います。岩井俊二テキなボヤーッとした画面でそこんとこ美化してるからいつまでもケータイ小説みたいな物語から脱することができない。

主演の演技もNo.1とったるねん!みたいな俗っぽい欲望を表さないし、青柳翔と鈴木亮平に対する演出もナルシストっぽい演技が実にサブい感じになっています。『赤線地帯』で「わいはミロのヴィーナスや!」と言い放つ京マチ子を見習ってほしいですね。胡桃がNo.1になる過程は枕で客を奪ったり、金を失った太い客を切るとかで表されてるんですけど、ぬるいんですよね。これ、水崎綾女に対する演出が悪い意味でやな女になりきらせてないことが原因だと思うんですけど。やっぱりどこまでも「良い子」で終わらせちゃってる。どん底になって「信じること」をやめたんだから、もっと下衆に演出しなければならないところを、それができてないから、悲劇のヒロイン的な自己陶酔以上の枠を超えられないんです。大野のバックグラウンドもひどかったですね。親父がヤクザで、東京の大学受かったのに入学金を親父に使われてしまって田舎から出てきて闇金の社長になる、ってアホかと。それに惹かれるのもアホかと。それで普段はフレンチ食ってシャンパン飲んでるようなやつが、胡桃とのデートで「俺が一番好きな店に連れていくよ」って行く場所が大久保の家庭的な焼き肉屋って、こんなアホみたいな紋切型よく恥ずかしげもなく書けるなと。紋切型であることは悪くないんですよ。全体のトーンとこの紋切型がケータイ小説な稚拙さをさらに加速させることにしかなっていないからダメなだけで。

このままセックスシーンも首を舐め合うだけでキリンのネッキングにしか見えない常套手段で済ませるかと思ったら、意外と良かったです。 板尾創路との絡みで、チーズを指につけて擬似イラマチオさせたり、チーズをアソコに塗ってバックからついたり、ウェット&メッシーが好きな人にとっては嬉しいシーンです。因みに、「アソコ」はボボじゃなくてアヌスであると勝手に思っています。女優のアヌスにホイッブクリームをぶち込んで「ブビビッブポッ」って音を出しながらそれを一気に噴射するってジャンルが洋ピンで確立されていて、その類のものが好きってだけなんですけどね。 それと後半の絡みでちゃんと乳首も出してます。

カメラの動きも気になりました。やたらガタガタ動いて気持ち悪くなります。これも胡桃の心理描写だって言っちゃえばいいんでしょうけど、後半で海に向かう胡桃を追うショットでも揺れてます。ここは揺らす必要まったくないはずなんですよね。カメラマンはおしっこ漏れそうだったんでしょうか。

後はブランドものが散らばってるなか胡桃が寝転んでるシーンとか、森で彷徨ってる幻想シーンとか、ゲージツな感じにしたかったんでしょうが、これも美化させるためのシーンでしかなくて、サブいです。ブランドもの散らばらせるのであれば、TKが逮捕された時にニュースで流れた小室邸の映像を参考にした方がよっぽど良いですよ。

他にもNo.1になった時に、写真見ながら「もっと頰削った方が良いかな」とか言ってるけどほとんど加工されてなくて(キャバクラのパネマジ技術はすごいですからね)、映画宣伝用のヴィジュアルの方がガンガン加工してるんだから、こっち使った方が良いじゃん!とか、言い出したらキリがないですね。

とにかく、題材が俗っぽさを目一杯出せる、というかそこ隠したらこのテーマ描けないじゃんってものなのに、そこんとこが物語、演出、画面どこをとっても描かれてなくて美化され過ぎている上に、その美化がケータイ小説ばりに稚拙だからギャグなのかマジなのか分かんない。ところどころ笑えるので、そういう意味では楽しめます。

マニエリスム

Ⅰ.マニエリスムとは何か

 

極端に寓意と技巧を凝らした、反古典、反ルネサンス的な芸術運動

 

語源:マニエラ(maniera) 手法、技巧

 

技巧と様式に拘泥する故の模倣の連続⇒「マンネリズム」

 

時代:ルネサンスバロックの間(15c中頃)

 

代表作家:ミケランジェロ、ブロンツィーノ、アルチンボルド、エル・グレコ、パルミジャニーノ、ヤコポ・ダ・ポントルモ

 

 

Ⅱ-1.マニエリスムの様式(形態としてのフォルム)

 

  • セルペンティナータ(蛇状曲線的)、歪み

 

ミケランジェロ (伊 1475~1564) 『ラオコーン』

マニエリスムの元祖(ミケランジェロは一般にルネサンス

葛藤(プシコマキア)2つの感情に引き裂かれる⇔古典―感情の理性的調和

 

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②フランチェスコ・サルヴィアーティ(伊 1510~1563) 『ダヴィデのもとに赴くパテシバ』

空間の歪み

行きたいという欲望と、行ってはならないという禁忌が生み出すアンビバレントな感情⇒捩れ 

顔の方向と手の向きが逆に

 

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③パルミジャニーノ (伊 1503~1540)『凸面鏡の自画像』 

象全体の奇妙な歪曲、拡大

病的に大きな手、メランコリックで虚な顔つき

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 技の巧みなところをきわみまで試してみようとして、彼は或る日床屋の半ば盛り上がった鏡に自分を映して自画像を描きはじめた。この鏡の凸面には天井の桟(えつり)なども丸くみえ。ドアやたてもののすべてが奇妙な工合に後ろに退いてゆくような珍奇(ビザール)さが映し出された。彼はその面白味(カプリッチョ)のために、これらすべてを写し出そうと考えた。そこで彼は木の丸板を半ば盛り上るように割って、その鏡と同じ大きさにし、そのすばらしい技術をもって鏡の中に見た一切のものを忠実に写した。

                               ヴァザーリ

 

珍奇(bizarre)、奇想(カプリッチョ)的なもの、そこからうまれる「驚き」を好む傾向

 

  • 引き伸ばし

 

④エル・グレコ (西 1541~1614)『ヨハネの幻視』 

異様に引き伸ばされた身体

曲げるためには引き伸ばす

 

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⑤パルミジャニーノ 『子イエスと天使たちのもとなる聖母』

異様に長く白い首

一点に集中しない、ばらばらに向けられた視線

⇒回転する視点(cf.サルヴィアーティ②)

 

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Ⅱ-2.マニエリスムの様式(内容としてのフォルム)

 

 

  • 寓意、象徴

 

⑥ブロンツィーノ (伊 1503~1572)『愛の寓意』

頭を掻き毟る女―嫉妬

薔薇の花を投げようとしている子ども―快楽

蜂の巣をもった女―欺瞞

ヴェールを剥ぎ取ろうとする老人―時(時は全てを露呈させる)

老人を手伝って、ヴェールをもち上げようとする女―真理

 

あるものを全くかけ離れたもので寓意的、象徴的に表象化しようとする

 

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  • 相反するもの、全く異なるものの結合

 

アルチンボルド(伊 1527~1593)『ウェルトゥムヌス』

野菜を組み合わせることにより人間を描くという、全く異なるものの結合

⇒cf.プシコマキア

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ボヘミア王ルドルフ2世

 

ヘルマフロディトスイメージの流行

 

 

  • 否定的感情(憂鬱、不安、恐怖、死)

 

古典的、アポロン的、理性的⇔ディオニュソス的、頽廃趣味

 

⑧モンス・デジデリオ (仏 1593~???)『爆裂する教会』

廃墟 幻想

ブルトン『魔術的芸術』での紹介

 

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  • 夢、綺想、幻想

 

⑨ジョルジョ・ギージ (伊 1520~1582) 『ラファエッロの夢』

ミメーシス⇔expression(外へ押し出す)

内的世界を外に表象化する

 

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⑩ボマルツォの怪物庭園(1572)

 

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Ⅲ.マニエリスム的精神構造

不調和、不安、憂鬱、自閉、孤独、偏執、驚異、類似・結合への希求

地下水脈において途切れることなく流れ続ける反動的精神構造

 

 

Ⅳ.ロマン主義象徴主義デカダンスシュルレアリスムら反古典的芸術との通底

 

⑪フランシコ・デ・ゴヤ (西 1746~1828)『理性の眠りは怪物を産む』

ロス・カプリチョスという一群の綺想作品

近代絵画の始まり

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マン・レイ(米 1890~1976)『アングルのヴァイオリン』

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歌川国芳(日 1797~1861)『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』

 

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「古典主義以前であると、古典主義以後であると、あるいは何らかの任意の古典主義と同時期であるとを問わず、古典主義に背馳するあらゆる文学的傾向」クルティウス

 

『岸辺の旅』

早稲田松竹黒沢清監督『岸辺の旅』と橋口亮輔監督『恋人たち』を観てきました。以前ギンレイホールで『恋人たち』を観たのですが、そのときは酒をハイペースで呑んでから観たため、中盤で爆睡、終盤は若干吐き気を催しながら視聴し、ほとんど観ていないようなものだったので、評判の良い『恋人たち』をもう一度観ようという思いで向いました。そこで同時上映されていたのが、『岸辺の旅』だったのですが、観るまではあくまでオマケ、目的は『恋人たち』にありという気持ちで映画館に入ったのです。

率直な感想としては、『恋人たち』はやはり面白かったし、『岸辺の旅』は面白いとは思えなかった。もし家で横になりながら観たのであれば、ほとんど記憶に残らないであろう映画というものでした。しかし、『恋人たち』は面白かった故に距離をとりながら観ることができず、『岸辺の旅』はなんだか違和感を覚えながら観たために映画を観る自分と作品の間に距離ができ、むしろ『岸辺の旅』に幾つかの「気づき」があった、ということが起りました。

監督の黒沢清ですが、非常に雑な個人的印象でいうと、国際的な評価を得ており、批評家筋からの評価が高い監督、万田邦敏青山真治と並んで、ハスミンの弟子というものでしょうか。

こんな印象を持っていますから、なかなかとっかかりにくい、観るのにやや躊躇てしまうような監督だったわけですが、テレビドラマも含めると過去に三作品だけ見ています。それが『降霊』、『回路』、『トウキョウソナタ』なのですが、唯一『トウキョウソナタ』のみ良い映画だなと思ったものの、『降霊』に関しては草薙剛が出ていること意外ほとんど覚えておらず、評価の高い『回路』に関しては、何故これが評価が高いのか分からない、面白いという人がいるのであれば説明して欲しいという、もやもやした気持ちの残った作品です。

『岸辺の旅』も、その感想をひっくり返してくれる作品ではなく、つっこみたくなるような演出、鼻につく思わせぶりから良い作品だと言えないものの、先に書いたように「気づき」が幾つかあったため、それを言葉にできないかと思わせてくれるものではありました。

 

あらすじは面倒なのでwikipediaから剽窃します。

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夫である優介が失踪してのち、瑞希はピアノ教師をわずかに続けることで世間との接触を保っていた。そんな彼女の前に、ある日突然に優介が現われる。口調も態度も往時と変わらない彼に、すでに死んだ身だと説明され混乱する瑞希だが、思い出の地をめぐる旅に出ようと持ち掛けられ、そのことばに従う。

電車に乗って辿り着いた街で、ふたりは新聞配達業に携わる老人、島影の店を訪ねる。過去に彼の下で働いていた優介とは話もはずみ、家事の助け手として瑞希の存在にも馴染み始めた島影だったが、ある日消え失せてしまう。島影もまた死者であり、優介のことばで迷いを振り切ってあの世に旅立ったのだ。

さらにふたりは夫婦の経営する食堂の扉をくぐる。店の手伝いをする毎日のなか、瑞希は2階に残されたピアノを見つけ、それをめぐる妻フジエと死別した妹との思い出を聞かされる。現われた妹と対面し、生前弾けなかったピアノの演奏を通じて彼女の微笑を引き出せた瑞希は、この旅の意味を少しずつ悟ってゆく。

だが、優介に宛てた一通の手紙をめぐってふたりは口論になり、瑞希は優介と接触をもっていた女、朋子にひとりで逢いにゆくことを決める。勤務先で朋子を呼び話をはじめた瑞希は、朋子の毅然とした態度を通じて自己嫌悪に打ちのめされ、消えてしまった優介の名を後悔をもって呼ぶ。変わりない姿を見せた優介を抱きしめる瑞希は、最後まで彼の旅につきあう決心を固めていた。

山奥の農村へ向かい、そこの人々に向けて夫が私塾を開いていたことを知った瑞希は、働き手であったタカシを失った妻とその父、息子に出会う。彼らの思いに呼び寄せられたタカシの、この世への妄執を見せつけられたふたりは己を振り返るとともに、この旅のすえに別れねばならないことを思い知らされた。そして彼らは、旅の終わりの場所にやって来た。

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『岸辺の旅』というタイトルですが、これは明快で、彼岸と此岸の「岸辺」の旅ということになります。

先に書いた通り、演出面で好きになれない箇所が幾つかあったのですが、それは物語序盤ですぐに感じることとなりました。勇介が戻ってくるシーン、瑞希が「あ、戻ってきたのね」というような演技をするのですが、朝帰りした旦那を迎えるんじゃないんだから、死んだと思って突然戻ってきた旦那にそんな態度とるか?とつっこみたくなります。映画や小説は表象化されたものですから、もちろん嘘があってもいい。しかし、フィクションの嘘には「悪い嘘」と「良い嘘」があります。それでは、何が「悪い嘘」で何が「良い嘘」なのか、これを分けるのは、作品のなかでその嘘が機能しているか否かによると思います。瑞希、つまり深津絵理の嘘っぽい演技が作品のなかで機能していないのか否かということはまた後で考えたいと思いますが、一方で非常に「良い嘘」を同じシークエンスのなかで黒沢清は行っています。それが家の中にある「柱」です。瑞希の住む家、これは恐らくマンションなのですが、部屋の真ん中に太い柱が建てられています。木造の一軒家でもないのにこんな柱があるマンション、今時ほとんどないと思いますので、観ているこちらは非常に違和感を感じます。その違和感を感じたまま観ていますと、「柱」がその後のシークエンスでも反復して出てくるので、これは何かあるんじゃないかと考えれば、黒沢清がここに普通ではありえないものを置いた意味が見えてくる。構図を観ていると、勇介と瑞希を裂くように「柱」が置かれているのです。勇介は死んでいるわけですから、すでにこの世のものではない、つまり彼岸におり、瑞希は此岸にいる。この世界の裂け目というものを「柱」によって表現していることが分かるはずです。この裂け目を表現するのは柱だけではありません。例えば瑞希と勇介が電車に乗っているショット、その間には二人の間を綺麗に裂くように窓枠の線が入っていますし、バスに乗っているシーンでは、オレンジ色の手すりが彼らの間を裂いています。このシーンで、瑞希がその線を越えて勇介の空間に入ったり出たりしていることも注目に値すると思います。

なかでも特に「柱」をうまく機能させているのが、食堂の二階で瑞希がピアノを弾くシークエンスで見られます。瑞希が偶然ピアノを弾いて、それを聴いた奥さんが駆けつけてくる箇所ですが、ここにも柱は置かれており、柱で裂かれた空間の左側に瑞希と奥さんは配置されている。ただ、奥さんは後ろを向いており、瑞希はその後ろ姿を観ているということに注目してほしいと思います。奥さんが動き出し、カメラも動きだします。そこで瑞希と奥さんが視線を交えるかたちになるのですが、カメラの動きによって二人の間に今度は柱が置かれている構図になります。つまり、柱で裂かれた空間の一方に二人が収まっているときは視線が向かい合っておらず、向かい合った時には二人の間は柱で裂かれてしまっている。注意して観るとこの状態が崩れないよう、瑞希、奥さん、カメラが慎重に動かされていることがよく分かります。もちろん、実は奥さんは死んでいた、などと言いたいわけではありません。問題は何を契機に二人の視線が交わるのかということにあります。奥さんが、死んでしまった妹に伝えられなかった言葉があると瑞希に伝えるのですが、その後に画面が暗くなり、死んだはずの妹が現れます。そこで瑞希が妹にピアノを弾くよう導くのですが、ピアノを弾く妹に瑞希と奥さんの視線があてられます。そして奥さんが伝えられなかった言葉を妹に伝えた後、瑞希と奥さんの間にあった「柱」は取り払われ、お互いの視線が向かい合うのです。これは『トウキョウソナタ』のラストで息子がピアノを弾くシークエンスにおいて、ばらばらだった家族の視線が息子にあてられるという素晴らしい場面の反復であるのかもしれません。

瑞希が勇介を迎えたときの話に戻りましょう。旅をしていたのに、突然自宅で瑞希が寝ているショットに切り替わるという場面が2回あるのですが、そこで瑞希は「何だか変な夢」といったことを呟きます。その後のシーンで旅の荷物が映されるショットがあるので、本当に夢なのか、それとも現実なのかということに、瑞希とともに作品を観る者もゆさぶられます(2回目はこの荷物のショットの繰り返しに加え、時間の経過を示すために植木鉢の枯れた植物や黒くなったバナナなど、計3つのショットが差し挟まれますが、3つはやりすぎ、1つで充分です)。旅をしているときに昼間の月が映されたショットが挟まれますが、これは白昼夢を暗示させるものなので(農村の場面で夜の月が映されますが、昼から夜の月へと変化した意図がどこにあるかはまだ汲み取りきれないままです)夢か現実かという二項対立というよりも夢と現実が混ざりあった状態なのかもしれません。そう考えると、瑞希の嘘っぽいというか不思議な態度、これもしっかりと作品のなかで機能していると言える気がします。だから深津絵理にたいする演出が総じて良いかというと、そうでもないのですが・・・

次に作品のなかで使われる衣装と小道具に関して考えてみましょう。これに対しては難を感じた箇所が2カ所あります。1つは島影が憤って外に飛び出し、公園でワンカップを呑みながら心情を吐露するシークエンスですが、公園でやけ酒をするというのが、ワンカップといういかにも安直な小道具によって、非常に雑だなと印象を与えてしまうのです。また、農村において瑞希がモンペを履いてるのですが、これにも何だかなあと感じてしまった。作品に描かれているわけではないので、推測でしかありませんが、少ない荷物を持って旅をしている瑞希は作業に向いた服を持っていなかったため、タカシの父か誰かがモンペを貸したのでしょう。それにしても東京から来た若い女性が農村を背景にモンペを履いているというのは、時代錯誤といいますか、非常に安直な感じがします。ジーパンでいいじゃないですかと言いたくなる。ただ、小道具といいますか美術になるのですが、これはなるほどと思ったショットがある。勇介が突然現れるというシーンが、瑞希が自宅で目を覚ます場面に連なって2回あるのですが、1回目は記憶が曖昧なので定かではないものの、2回目では確実に「テレビ」の横から現われている。テレビは像を写すものですから、この世のものではない勇介が「テレビ」の横に置かれているというのにはなるほど思わせてくれました。

これは作品全体を駄目にするほどやらない方がよかったんじゃないかと思うものがあるのですが、それは非常に質の低いCGを使用することです。タカシを勇介と瑞希が森で見つけた時、霧が掛かっているのですが、これが本当に質の悪い、誰が観てもつくりものと分かってしまうものであるため、本当に興醒めしてしまうのです。『回路』でも安っぽいCGによる爆発シーンがありますが、質の低いCGを使うぐらいであれば、別の方法をとったほうが良いのではと考えざるをえません。

一方で照明を使用するシーンは緊張しながら観ることができました。照明は「光」を扱う技術ですが、この「光」というものが、勇介の存在が何なのかということを理解するための手掛かりとなっています。農民に相対性理論に関する講義を行うなかで、勇介は「光」の話をします。こういった分野には疎いので、分かったとは言い切れませんが(勇介が話す内容というよりは、先にいった「勇介の存在が何なのか」ということも含みます)光はゼロの質量をもつ粒子であるというようなことを言っていたかと思います。粒なのにゼロということなので、門外漢にとっては矛盾しているように感じられるんですね。その話をするとき、勇介の顔の左側から光が当てられている。これは勇介と「光」の類似性を示すものとして捉えられるのではないでしょうか。勇介は見えるものですし、触れることもできる。だけれど、この世のものではない。この場面は理解し切れなかった箇所ですので、あまり思わせぶりなことは言えませんが、タカシが同様に身体に異常をきたし、最後は目がみえなくり(光を失い)、黒い闇のようなものに囲まれて消えていったことも合わせて考えると、身体(と言ってよいかは置いときますが)に異常をきたしつつある勇介の顔半分に光があたっていた(片面に光を当てれば、もちろんもう片面の陰影は強くなります)ということは示唆的かもしれません。つまり、瑞希を連れまわしこの世にとどまることで、半分は闇に囲まれていたのではないのかと解釈できると思うのです。

最後に大きな疑問が残りました。勇介と瑞希、タカシとその妻は対比的に描かれており、勇介はこの世のものではなくなったタカシが無闇に妻を引き連れ廻すことに憤りを感じています。しかし、これは勇介自身にもあてはまることで、やっていることは大枠でみれば同じです。ですが、タカシは、勇介の「お前の望みは何だ」という問いにたいし、「生きたかった」という言葉を残して闇に囲まれて消えてしまいます。このとき、タカシと同じ行動をとっている勇介は、自分もこのまま瑞希を連れまわし続ければ、最後は闇に囲まれて消えていってしまうのではないかと気づいたと思うんですね。だからこそ、海が見える「光」の当たる場所で、瑞希を連れまわすことを止め、この世から消えていきます。そこで残った大きな疑問は勇介の「望み」は何だったのか、なぜ瑞希の前に現われたのかということです。僕のなかでこれは未だに分からないままとなっています。

『ザ・マスター』

『ザ・マスター』

 

基本的には父と息子の物語であるし、共感、同一化、対峙、分離がフレディとランカスター・トッドとの間でどのように描かれるかが物語の肝になっていると思う。

 

海軍の中でのフレディ

 

フレディは海軍に属しているもののPTSDと思われる理由で一線からは退き、砂浜で警備にあたる任務に就いている。警備にあたるといっても、これが重度のアル中で、冒頭からヤシの実を砕いてそこにアルコールを入れて呑む姿が映される。フレディが行う活動は、規律と命令で御された軍のそれではなく、モラトリアム的に描かれている。終戦放送が流されるシーンにおいても、その放送に耳を貸すことはなく、魚雷の燃料をアルコールとして呑むというアル中っぷり。戦時に使用されるものを自身の欲望のために呑むことが、軍にいながら軍から逸脱しているというフレディの同一性の危うさ示す。戦争が終わろうが、終わらなかろうが、フレディにとってはあまり意味がない。 

その後、PTSDを患った兵士たちが集会に呼ばれ、君たちには明るい未来が待っている、社会のために働き、手に職をつけようといった旨のご高説が垂れられるが、その言葉を背景に映し出される兵士たちの顔からは虚無感が漂い、言葉の内容が相まってより一層空虚さを増す。視線が話者に向かわないもの、視線が向くもののマネキンのように硬直している者。なんか見たことあるなと思ったら、校長の演説を聞く学生たちのそれに近い。

 

アイロニカルな態度

 

フレディがロールシャハ・テストを受けるシークエンス。医師をおちょくるように、見せられる絵を女性器に例え、「アイロニー」の態度をとる。橋川文三から引用すれば「アイロニー(イロニイ)」とは「無限に自己決定を留保する心的態度」であり、フレディの性格を理解する上で重要なファクターとなる。

 

フレディと女性

 

ロールシャッハテストで使用される図版を女性器に喩えるということもフレディの性格を表す。物語終盤まで、彼は女性を性的にしか見ていない。デパートの売り子と関係を結ぼうとするものの、その後の食事のシーンではすぐに眠ってしまい、売り子との会話はなされない。信者の家で催されたパーティーにおいて、空想の中で女性を全裸にすることがそれをさらに如実に表す。フレディは女性と性的に関係を結ぶことができるものの、一人の男性と女性としての結びつきを得ることができない。

 

身体

 

歩く際、常に猫背であり、前のめり、喋るときは口の左側のみで喋る。つまり、「歪んで」いる。自信の無さを感じさせるとともに、直立したライナーな身体をもたない、無軌道な生を表象する。

 

無軌道

 

フレディという人物の性格を最も如実に表すのが「無軌道」であり、今までの要素が全てここに収斂する。フレディの生には目的がない。行き着く先が無い。だからこそ、女性とは性という瞬間の結びつきしかできないし、アイロニーな態度で決定を留保する。仕事では理性で制御できず、その場の感情から逃亡する。キャベツキッピングの仕事に就くものの、フレディ特性ドリンク(アルコールに柑橘類、何かしらの錠剤?の「ごちゃまぜ」)を呑ませ、共に働く老人が死にそうになる際も自分のせいではないと逃亡する。逃亡するこのショットがめちゃくちゃ美しく、これを観れただけで、もうこの映画は素晴らしいと言いたいんだけど、その絵は意味をもっている。扉を開かれた瞬間に映される風景は霧に囲まれ、その先は森である。森は無秩序のメタファーであり、フレディの人生を暗示する。さらに3つ目の逃亡、ランカスターとその娘、娘婿と目的地を決めてそこまでバイクで走って戻って来るというゲームを行うシークエンス。目的地を曖昧に指差し、走っていくが、フレディは戻ってこない。生への意味=目的が見出せず、無秩序を無軌道に彷徨する。その動きはアルコールの酩酊のように軸がない。ジョニー・グリーンウッドの音楽は揺れるストリングスの音を用いており、この無軌道性とそこからくる不安を裏打ちしている。

 

ランカスター・トッド

 

ランカスターは生に大きな意義を持っている。ザ・コーブの教義を広め、救済をもたらすことであり、家族、教会の父であるということである。フレディが乗った「船」がランカスターの役割を表す。彼は目的地に向かう「船=家」の舵取りであり、信者たちを導くという目的をもっている。オープニング、上空からの撮影で「ライナー」に進む船が引く波はランカスターの生き方に結びつく。フレディの「無軌道」にたいし、ランカスターの生は「ライナー」だ。

 

ランカスターとフレディの邂逅

 

ランカスターが舵取りをする船にフレディが乗ることから邂逅が始まる。信者を含めたランカスターのファミリーの中で、フレディは異質であり、秩序を壊しかねない闖入者である。故に、ファミリーを守るランカスターの妻ペギーはフレディを排除しようとする。ランカスターはメシアとしてファミリーを導くことに、ペギーはファミリーを守る母としての役割を担う。しかし、ランカスターはフレディにたいし愛着を覚える。通過儀礼を経ていない未分化な性質はランカスターが既に終えた性質であり、ザ・コーブが目的とする救いをもたらすためのこれまでにない対象となる。また、未分化な状態という意味では、未だ父に同一化できていない息子としてランカスターには映り、自身が過去にはあったろう状態に共感すら覚える。フレディに対するランカスターの態度は排除ではなく、救済しようとする暖かさをもつ。だからこそ、フレディのつくる得体の知れない液体を共に飲む。

 

フレディの告白

 

ランカスターがザ・コーブの教義に則って、フレディに心理実験を試みるとき、最初フレディはお得意のアイロニーではぐらかそうとする。しかし、質問を繰り返されるうちにフレディの精神を大きく形成した事柄にたどり着く。叔母との性的関係である。この告白がフレディとランカスターが息子と父という関係性に至る決定的な要因となる。息子=フレディは、ランカスター=父に罪を告白し、救済または罰を求める。この告白からフレディの実の父の不在も感じさせる。フレディの取り乱しが、この罪を父に告白しなかったこと、父が不在であったことを浮き彫りにする。

  

フレディの過去の女性

 

叔母との性的関係に加え、フレディの精神を作り出したもう一つの重要なことが語られる。ドリスとの恋愛だ。女性と性的にしか関係をもつことができなくなる前、フレディはドリスと、男性と女性としての関係を結ぼうとしていた。ドリスと並ぶ構図はフレディの内面を表しており、未成年の女性にもかかわらず、ベンチに座るフレディをドリスよりも小さく描くことでフレディのドリスに対する自信の無さが見てとれる。しかし、任務に就く前、ドリスの家を訪れ、帰ってきたら結婚をすると告げることで、ドリスと向き合う。だが、任務に就いたフレディはPTSDとなり軍務を成し遂げる(=通過儀礼)により同一性を獲得することができず、再度自信を無くし、ドリスとの連絡を絶ってしまう。ドリスとの恋愛を成就させることができず、フレディは未分化のままに止まる。

 

ランカスターの代理者としての暴力

 

ランカスターが侮辱された時、フレディは暴力によって父であるランカスターの権威を守ろうとする。より詳細にいえば、「フレディの中での父」の権威を守ろうとする。フレディにとって、ランカスターが侮辱されるということは自分の父を失うことであり、無軌道な生から自身を導くメシアを見つけたにもかかわらず、再度その舵取りを失うことになるからだ。ランカスターは一貫してフレディの暴力性を諌めようとしているのであり、フレディの暴力はランカスターの代理行為ではなく、自身のエゴイズムから出ている。ランカスターが自分を導きえる存在ではないのではないかということを打ち消すかのように、暴力という直接的な行為によって自分のなかの父を守ろうとする。

 

教化

 

フレディの救済のため、ランカスターはフレディを教化しようとする。基本的には、ドリスという過去の乗り越え、暴力性の排除、また黒を白と思わせる洗脳に近い教化だが、フレディはこの教化に対し順応することができない。ここからフレディはランカスターに対し、疑いを持ちはじめ、先ほど述べたようにランカスターを侮辱する人物に対する暴力によって疑いを打ち消そうとする。しかし、ライナーな生へと導こうとするランカスターに対する疑いは打ち消すことができず、バイクで疾駆することで、無軌道な生へと再びフレディは戻っていく。

 

劇場での夢

 

映画館のなかでまどろむなか、フレディはランカスターから電話がかかってくるという夢をみ、その夢に従ってランカスターの元を訪れる。そこでランカスターから協会の一員となるか、ここから出て行き自分の敵となるか、という選択を迫られる。何度かの教化によっても順応できなかったフレディの無軌道な生は、巨大となり家父長制を強めるザ・コーブにとってもはや脅威だ。ここでフレディはランカスターから離れることで、父との同一化を拒み、分離というかたちで別の生き方を選ぶこととなる。

 

ラスト

 

酒場で呑んでいたフレディは匿名の女性と出会い、性的な関係を結ぶが、フレディから分離する前の性的な関係だけではない、男性と女性の関係性をもっていることを、窓から差し込む陽光と、名前を聞く(性欲を満たすだけの匿名な存在から一人の女性へ)という行為が暗示する。ランカスターが歩むライナーな生き方とは異なるかたちで、フレディは無軌道ながらも関係性を結んでいくことで、再び自身の生を取り戻す。最後のショットは序盤のショットでも描かれた砂でつくった女の横で寝そべるというものとなっており、ランカスターのライナーな生にたいし、円環構造へと戻ったということを示す。女性との関係性を見出しということにより、その円環は上下左右どこに行くかわからないものの、その円は少しずつ移動をしている。