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『岸辺の旅』

早稲田松竹黒沢清監督『岸辺の旅』と橋口亮輔監督『恋人たち』を観てきました。以前ギンレイホールで『恋人たち』を観たのですが、そのときは酒をハイペースで呑んでから観たため、中盤で爆睡、終盤は若干吐き気を催しながら視聴し、ほとんど観ていないようなものだったので、評判の良い『恋人たち』をもう一度観ようという思いで向いました。そこで同時上映されていたのが、『岸辺の旅』だったのですが、観るまではあくまでオマケ、目的は『恋人たち』にありという気持ちで映画館に入ったのです。

率直な感想としては、『恋人たち』はやはり面白かったし、『岸辺の旅』は面白いとは思えなかった。もし家で横になりながら観たのであれば、ほとんど記憶に残らないであろう映画というものでした。しかし、『恋人たち』は面白かった故に距離をとりながら観ることができず、『岸辺の旅』はなんだか違和感を覚えながら観たために映画を観る自分と作品の間に距離ができ、むしろ『岸辺の旅』に幾つかの「気づき」があった、ということが起りました。

監督の黒沢清ですが、非常に雑な個人的印象でいうと、国際的な評価を得ており、批評家筋からの評価が高い監督、万田邦敏青山真治と並んで、ハスミンの弟子というものでしょうか。

こんな印象を持っていますから、なかなかとっかかりにくい、観るのにやや躊躇てしまうような監督だったわけですが、テレビドラマも含めると過去に三作品だけ見ています。それが『降霊』、『回路』、『トウキョウソナタ』なのですが、唯一『トウキョウソナタ』のみ良い映画だなと思ったものの、『降霊』に関しては草薙剛が出ていること意外ほとんど覚えておらず、評価の高い『回路』に関しては、何故これが評価が高いのか分からない、面白いという人がいるのであれば説明して欲しいという、もやもやした気持ちの残った作品です。

『岸辺の旅』も、その感想をひっくり返してくれる作品ではなく、つっこみたくなるような演出、鼻につく思わせぶりから良い作品だと言えないものの、先に書いたように「気づき」が幾つかあったため、それを言葉にできないかと思わせてくれるものではありました。

 

あらすじは面倒なのでwikipediaから剽窃します。

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夫である優介が失踪してのち、瑞希はピアノ教師をわずかに続けることで世間との接触を保っていた。そんな彼女の前に、ある日突然に優介が現われる。口調も態度も往時と変わらない彼に、すでに死んだ身だと説明され混乱する瑞希だが、思い出の地をめぐる旅に出ようと持ち掛けられ、そのことばに従う。

電車に乗って辿り着いた街で、ふたりは新聞配達業に携わる老人、島影の店を訪ねる。過去に彼の下で働いていた優介とは話もはずみ、家事の助け手として瑞希の存在にも馴染み始めた島影だったが、ある日消え失せてしまう。島影もまた死者であり、優介のことばで迷いを振り切ってあの世に旅立ったのだ。

さらにふたりは夫婦の経営する食堂の扉をくぐる。店の手伝いをする毎日のなか、瑞希は2階に残されたピアノを見つけ、それをめぐる妻フジエと死別した妹との思い出を聞かされる。現われた妹と対面し、生前弾けなかったピアノの演奏を通じて彼女の微笑を引き出せた瑞希は、この旅の意味を少しずつ悟ってゆく。

だが、優介に宛てた一通の手紙をめぐってふたりは口論になり、瑞希は優介と接触をもっていた女、朋子にひとりで逢いにゆくことを決める。勤務先で朋子を呼び話をはじめた瑞希は、朋子の毅然とした態度を通じて自己嫌悪に打ちのめされ、消えてしまった優介の名を後悔をもって呼ぶ。変わりない姿を見せた優介を抱きしめる瑞希は、最後まで彼の旅につきあう決心を固めていた。

山奥の農村へ向かい、そこの人々に向けて夫が私塾を開いていたことを知った瑞希は、働き手であったタカシを失った妻とその父、息子に出会う。彼らの思いに呼び寄せられたタカシの、この世への妄執を見せつけられたふたりは己を振り返るとともに、この旅のすえに別れねばならないことを思い知らされた。そして彼らは、旅の終わりの場所にやって来た。

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『岸辺の旅』というタイトルですが、これは明快で、彼岸と此岸の「岸辺」の旅ということになります。

先に書いた通り、演出面で好きになれない箇所が幾つかあったのですが、それは物語序盤ですぐに感じることとなりました。勇介が戻ってくるシーン、瑞希が「あ、戻ってきたのね」というような演技をするのですが、朝帰りした旦那を迎えるんじゃないんだから、死んだと思って突然戻ってきた旦那にそんな態度とるか?とつっこみたくなります。映画や小説は表象化されたものですから、もちろん嘘があってもいい。しかし、フィクションの嘘には「悪い嘘」と「良い嘘」があります。それでは、何が「悪い嘘」で何が「良い嘘」なのか、これを分けるのは、作品のなかでその嘘が機能しているか否かによると思います。瑞希、つまり深津絵理の嘘っぽい演技が作品のなかで機能していないのか否かということはまた後で考えたいと思いますが、一方で非常に「良い嘘」を同じシークエンスのなかで黒沢清は行っています。それが家の中にある「柱」です。瑞希の住む家、これは恐らくマンションなのですが、部屋の真ん中に太い柱が建てられています。木造の一軒家でもないのにこんな柱があるマンション、今時ほとんどないと思いますので、観ているこちらは非常に違和感を感じます。その違和感を感じたまま観ていますと、「柱」がその後のシークエンスでも反復して出てくるので、これは何かあるんじゃないかと考えれば、黒沢清がここに普通ではありえないものを置いた意味が見えてくる。構図を観ていると、勇介と瑞希を裂くように「柱」が置かれているのです。勇介は死んでいるわけですから、すでにこの世のものではない、つまり彼岸におり、瑞希は此岸にいる。この世界の裂け目というものを「柱」によって表現していることが分かるはずです。この裂け目を表現するのは柱だけではありません。例えば瑞希と勇介が電車に乗っているショット、その間には二人の間を綺麗に裂くように窓枠の線が入っていますし、バスに乗っているシーンでは、オレンジ色の手すりが彼らの間を裂いています。このシーンで、瑞希がその線を越えて勇介の空間に入ったり出たりしていることも注目に値すると思います。

なかでも特に「柱」をうまく機能させているのが、食堂の二階で瑞希がピアノを弾くシークエンスで見られます。瑞希が偶然ピアノを弾いて、それを聴いた奥さんが駆けつけてくる箇所ですが、ここにも柱は置かれており、柱で裂かれた空間の左側に瑞希と奥さんは配置されている。ただ、奥さんは後ろを向いており、瑞希はその後ろ姿を観ているということに注目してほしいと思います。奥さんが動き出し、カメラも動きだします。そこで瑞希と奥さんが視線を交えるかたちになるのですが、カメラの動きによって二人の間に今度は柱が置かれている構図になります。つまり、柱で裂かれた空間の一方に二人が収まっているときは視線が向かい合っておらず、向かい合った時には二人の間は柱で裂かれてしまっている。注意して観るとこの状態が崩れないよう、瑞希、奥さん、カメラが慎重に動かされていることがよく分かります。もちろん、実は奥さんは死んでいた、などと言いたいわけではありません。問題は何を契機に二人の視線が交わるのかということにあります。奥さんが、死んでしまった妹に伝えられなかった言葉があると瑞希に伝えるのですが、その後に画面が暗くなり、死んだはずの妹が現れます。そこで瑞希が妹にピアノを弾くよう導くのですが、ピアノを弾く妹に瑞希と奥さんの視線があてられます。そして奥さんが伝えられなかった言葉を妹に伝えた後、瑞希と奥さんの間にあった「柱」は取り払われ、お互いの視線が向かい合うのです。これは『トウキョウソナタ』のラストで息子がピアノを弾くシークエンスにおいて、ばらばらだった家族の視線が息子にあてられるという素晴らしい場面の反復であるのかもしれません。

瑞希が勇介を迎えたときの話に戻りましょう。旅をしていたのに、突然自宅で瑞希が寝ているショットに切り替わるという場面が2回あるのですが、そこで瑞希は「何だか変な夢」といったことを呟きます。その後のシーンで旅の荷物が映されるショットがあるので、本当に夢なのか、それとも現実なのかということに、瑞希とともに作品を観る者もゆさぶられます(2回目はこの荷物のショットの繰り返しに加え、時間の経過を示すために植木鉢の枯れた植物や黒くなったバナナなど、計3つのショットが差し挟まれますが、3つはやりすぎ、1つで充分です)。旅をしているときに昼間の月が映されたショットが挟まれますが、これは白昼夢を暗示させるものなので(農村の場面で夜の月が映されますが、昼から夜の月へと変化した意図がどこにあるかはまだ汲み取りきれないままです)夢か現実かという二項対立というよりも夢と現実が混ざりあった状態なのかもしれません。そう考えると、瑞希の嘘っぽいというか不思議な態度、これもしっかりと作品のなかで機能していると言える気がします。だから深津絵理にたいする演出が総じて良いかというと、そうでもないのですが・・・

次に作品のなかで使われる衣装と小道具に関して考えてみましょう。これに対しては難を感じた箇所が2カ所あります。1つは島影が憤って外に飛び出し、公園でワンカップを呑みながら心情を吐露するシークエンスですが、公園でやけ酒をするというのが、ワンカップといういかにも安直な小道具によって、非常に雑だなと印象を与えてしまうのです。また、農村において瑞希がモンペを履いてるのですが、これにも何だかなあと感じてしまった。作品に描かれているわけではないので、推測でしかありませんが、少ない荷物を持って旅をしている瑞希は作業に向いた服を持っていなかったため、タカシの父か誰かがモンペを貸したのでしょう。それにしても東京から来た若い女性が農村を背景にモンペを履いているというのは、時代錯誤といいますか、非常に安直な感じがします。ジーパンでいいじゃないですかと言いたくなる。ただ、小道具といいますか美術になるのですが、これはなるほどと思ったショットがある。勇介が突然現れるというシーンが、瑞希が自宅で目を覚ます場面に連なって2回あるのですが、1回目は記憶が曖昧なので定かではないものの、2回目では確実に「テレビ」の横から現われている。テレビは像を写すものですから、この世のものではない勇介が「テレビ」の横に置かれているというのにはなるほど思わせてくれました。

これは作品全体を駄目にするほどやらない方がよかったんじゃないかと思うものがあるのですが、それは非常に質の低いCGを使用することです。タカシを勇介と瑞希が森で見つけた時、霧が掛かっているのですが、これが本当に質の悪い、誰が観てもつくりものと分かってしまうものであるため、本当に興醒めしてしまうのです。『回路』でも安っぽいCGによる爆発シーンがありますが、質の低いCGを使うぐらいであれば、別の方法をとったほうが良いのではと考えざるをえません。

一方で照明を使用するシーンは緊張しながら観ることができました。照明は「光」を扱う技術ですが、この「光」というものが、勇介の存在が何なのかということを理解するための手掛かりとなっています。農民に相対性理論に関する講義を行うなかで、勇介は「光」の話をします。こういった分野には疎いので、分かったとは言い切れませんが(勇介が話す内容というよりは、先にいった「勇介の存在が何なのか」ということも含みます)光はゼロの質量をもつ粒子であるというようなことを言っていたかと思います。粒なのにゼロということなので、門外漢にとっては矛盾しているように感じられるんですね。その話をするとき、勇介の顔の左側から光が当てられている。これは勇介と「光」の類似性を示すものとして捉えられるのではないでしょうか。勇介は見えるものですし、触れることもできる。だけれど、この世のものではない。この場面は理解し切れなかった箇所ですので、あまり思わせぶりなことは言えませんが、タカシが同様に身体に異常をきたし、最後は目がみえなくり(光を失い)、黒い闇のようなものに囲まれて消えていったことも合わせて考えると、身体(と言ってよいかは置いときますが)に異常をきたしつつある勇介の顔半分に光があたっていた(片面に光を当てれば、もちろんもう片面の陰影は強くなります)ということは示唆的かもしれません。つまり、瑞希を連れまわしこの世にとどまることで、半分は闇に囲まれていたのではないのかと解釈できると思うのです。

最後に大きな疑問が残りました。勇介と瑞希、タカシとその妻は対比的に描かれており、勇介はこの世のものではなくなったタカシが無闇に妻を引き連れ廻すことに憤りを感じています。しかし、これは勇介自身にもあてはまることで、やっていることは大枠でみれば同じです。ですが、タカシは、勇介の「お前の望みは何だ」という問いにたいし、「生きたかった」という言葉を残して闇に囲まれて消えてしまいます。このとき、タカシと同じ行動をとっている勇介は、自分もこのまま瑞希を連れまわし続ければ、最後は闇に囲まれて消えていってしまうのではないかと気づいたと思うんですね。だからこそ、海が見える「光」の当たる場所で、瑞希を連れまわすことを止め、この世から消えていきます。そこで残った大きな疑問は勇介の「望み」は何だったのか、なぜ瑞希の前に現われたのかということです。僕のなかでこれは未だに分からないままとなっています。